ビブリオバトル、ブックトークだけでなくてリリックバトル、リリックトークをやってみてほしいんですよね
5月16日に渋谷のラジオ「渋谷で読書会」に出演しました。
アーカイブ聴けます。
双子のライオン堂YouTubeでアフタートークも聴けます(まだ5/17朝現在はまだアップされていない模様)。双子のライオン堂で『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』関連の講座をやりたいですねという話をしているのでそのうちご案内できると思います。
6月13日に版元ドットコム勉強会にて「『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか 知られざる戦後書店抗争』を版元はどう読むべきか」講演します
出版社向けですがどなたでも参加できます。オンラインでも視聴できます(ただし申込は必要)。
6月27日に紀伊國屋書店新宿本店にてNPO法人読書の時間主催(司会は田口幹人さん)で吉成信夫さんと対談します。吉成さんとは先日名古屋NBCのイベントにいらしていてご挨拶できました。
ぎふメディアコスモスにラッパーの裂固を呼んで子ども向けのイベントをやったという話を聞きました。岐阜はラップスタア優勝者のYellow Bucksなどを輩出しており、東海のシーンがアツいのは周知の事実ですね。
ラップと本、図書館、文学、読書の結びつきは奇異なものではなく、スペインでも採り入れられているし、モンゴルでは現代詩をラッパーが取り上げている。
ビブリオバトルやブックトークは、本を読んでいないとプレゼンできない(もしかしたら読まずにやっている子もいるかもしれないが少数派だろう)。
ところが「本は読まない」という若い人でも好きな曲の歌詞なら何曲もそらんじて言える/歌えることが少なくない(これに気づかせてくれたのは現代詩人でヘッズの佐藤雄一氏)。ボカロ曲やラップなど言葉の数がめちゃくちゃ多いものでも、ライブではみんな歌いまくる。これを考えるとリリックバトル、リリックトークをすればもっといろんな人が言葉について語り合えるのでは、と私も言ってきた。
本というかたちでなくても、生きていくうえで誰かの言葉を依り代にする、よすがにすることは行われているのだから。
Watsonは「読めても書けない漢字」とラップしているが、ひょっとするとディスグラフィア(生まれつき字を覚えるのが苦手で書けない)のではと思うし、
エル・テレサは「漢字読めない」と歌っているが、流暢にラップできるくらい言語能力自体には問題がないのに漢字が読めないのであれば、ディスレクシアである可能性もゼロではないと思う。
たとえ字に苦手意識があっても、リリックあるいはラップを通じて言葉を巧みに使える人たちはいる。読書はきらいでも、耳で聴いて歌詞を覚える、MVで観て覚えるのは得意な人もいる。
リリックバトル、リリックトークであれば、そういう子も包摂できる。
もうひとつ別の視点を挿入したい。
吉成さんは東海に移る前は宮澤賢治に惹かれて岩手で活動されていたが、
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
賢治の「農民芸術概論」で言われているのは、人々がいま生きる現実、労働からことば、芸術を立ち上げること、地域に根ざした表現をつくりだすことの称揚であり、これはヒップホップと通じる思想である。「農民」という言葉には階級(階層)的な意味と地域という意味が二重に含まれていると思うけれど、ヒップホップも(しばしば)ロウアークラスの現実を描いた表現であり、かつその地域の表現でもある。
賢治の場合は農民の労働現場から宇宙にまでつながるのだが、これも初期のヒップホップでいえばアフリカ・バンバータがいるし、あるいは近年にまで至るアフロ・フューチャリズムを考えても不可解なことではない。
よく知られていることだがPlanet Rockは最近だとaespaのsupernovaで引用されている(最初に聴いたときは笑ってしまった)
……ただこれらは対談のテーマである「書店と図書館の連携」とは直接的には関係ない。
とはいえ教育施設としての図書館が地域資料を重視しているのは周知のとおりである。
他国の事例をみても、本屋はコミュニティや体験の場としての価値をイベントや読書会、選書サービスを通して打ち出し、地元経済との結びつきを強めることで生きのこりをはかっていることが少なくない。
そういうなかで地元、フッドを大事にする価値観を打ち出しているヒップホップは、根っこの思想の部分では本当は遠くないと思う。「地元×ことば」「地域×文化」あるいは「しんどい現実を生きていくためのことば」という軸で引ける線はある。
草や暴力のようなイリーガルな部分を、行政や商売やってる側が敬遠したいのは当然だが、べつにヒップホップ関係者はそういう人ばかりでもない。
(それにそういう現実があることは事実なのだから、ないかのようにふるまうのも、あるいは公共サービスが拒絶するのも理念的には正しくない)
告知は「です・ます」なのに論を展開し始めると「だ・である」にしないと落ち着きが悪くてNewsletter内の文体がぐちゃぐちゃになってしまったけれど、また来週
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