「書店と図書館の連携」じゃなくて「書店と図書館と何か」で連携しないと意味なくないですか?
■告知
2025年7月4日(金) 19:30~21:00に三省堂書店神保町本店にてトークイベント出演。『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』では個別の書店の歴史に深入りしない方針で書いたけれど、せっかく三省堂書店でやるので三省堂の歴史と紐付けて本屋の歴史と今後についてトークできればなと。
三省堂産はね、『三省堂百年史』という公式の歴史の段階ですでにおもしろい本屋。
たとえば三井物産から靴下を大量に仕入れて、その宣伝のためにアドバルーン飛ばすくらいならまだわかる(わかるか???)けど、飛行機飛ばして空中からチラシをバラ撒いたりしていた。
それ本屋なのか?
本屋というか「学生のデパート」です。
資料作るのでぜひいらしてください。
社史出すくらいの本屋はみんな経営者も名物従業員もキャラが立っているので、これはこれでシリーズ化してもエンタメ性のある企画になるのではと思う。
AERA2025.6.16号に『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』に関する取材記事掲載。
記事自体はAERA DIGITALでも。
IpsosとNPRの調査を紹介した記事。アメリカでもNPR自体が「こんなに本を読まない」とか騒いでいる。だけど、ポイントはそこではない(本を読まない人の割合が多いこと自体はずっとそう)。
本を読む人のほうが映像もよく観ている、文化的な活動に時間を費やしている人たちである
ということ。
映像と読書はトレードオフではない(もちろん、1日の時間配分という意味ではトレードオフだが)。
「どっちもする」人が「本を読む」人な。
そこを対立的に捉えると、違うんじゃないですかね。
それからこの調査のもうひとつの注目ポイントは
オーディオブックの聴取時間がもはや読書時間と1日数分違う程度
まで来ていること。
『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』を読んだ方々から「じゃあ、何したらいいんですか」とやたら訊かれる。前も書いたが、やるべきことはそれぞれに違う。とはいえ大枠の方向性としてはこういうことしたらいいんじゃないですか、という本を年末に出すので、その草稿から切り出し。これは出版社側の話なので、本屋のほうの記事もいずれ。
・遠征関連でのお誘い
決まった講演・イベントの前後でその地域の方とさらに何かできたらと思うので、イベント・読書会・勉強会・交流会などご相談ください(基本、先着で決めます)。
7/7福岡,7/9岡山で図書館向けの講演があり、前乗りするので7/6夜、7/8夜空きアリ。
6日は福岡中心に九州北部、8日は岡山およびその隣県くらいまでなら大丈夫かと。
同様に7/22(火)夜に大阪で独立系書店にてイベント,7/23(水)午後16時まで図書館向け講演あり(ウェブに告知出てないので詳細は出たら)。7/22日中や7/23夜に大阪で何かやりたい方いたらそちらもご連絡を。そしたらもう一泊するので。
8/17日(日)-19日(火)鳥取市に行きます。17日午後~夜と19日午前空きアリ。
■今週のコラム 「書店と図書館の連携」じゃなくて「書店と図書館と何か」で連携しないと意味なくない?
6/27に吉成信夫さんと田口幹人さんとでお話する関係で先に献本いただいたので吉成さんの新刊『賑わいを創出する図書館』(KADOKAWA)を読んだ。
吉成さんってどういう人? と知るには吉成さんの語りを聞いたほうが本で読むより伝わると思う。
27日のトークイベントのテーマは「書店と図書館の連携」なのだが、吉成さんの新刊には(そして私の『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』にも)直接的には
「書店と図書館の連携」の話は……ほとんど書かれていない笑
しかし田口さんがどうしてこのテーマで吉成さんを召喚したのかは本を読めばすぐにわかる(なおわれわれは事前の打ち合わせは何もしていないので、これは私の解釈)。
「書店と図書館の連携」というかけ声自体は別にいいのだが、たとえば
文科省が図書館と書店の連携事例集を出しているけれど、これを読んでも
「何がしたくて連携してるの?」「目的は何なの?」
というそもそものところが何もわからない。
「書店と図書館の連携」は「何かを達成する」ためにお互いに協力するはずだ。
書店は書店でこうしたいという思いがあり、図書館は図書館でこうしたいという思いがあるはずである。
ところが、この文科省の資料だけ見ると「連携」することありきで「じゃあ何やろうか」と手段が目的化している印象を受ける(各地域の人たちがそうしている、ということではなくて、この資料の作り方がそうなってるよね、という話)。
なんでこんなまとめ方しちゃったのかな、と思う。
吉成さんが大事にしているのは「関係性の中で人が育ち合うこと」(28p)である。そしてホールアースカタログみたいなことをしたい、と。それがぎふメディアコスモスなのだと。
ホールアースカタログは何も知らずに見るとカタログでありノウハウ集でしかない。
文科省の事例集と何が違うんだ、と思いかねない。
ただちゃんと説明すると長くなるのでくわしくはスチュアート・ブランドの本を読んでほしい。
私なりにざっくりパラフレーズすると、こうだ。
ホールアースカタログは1960年代のヒッピーカルチャーから出てきたものである。
時代柄、当時の若者は西海岸を中心にマリファナやLSDを使いまくっていた。
こうした向精神薬を用いると、地球との一体感を得られ、近くにいる人へのいとおしさが高まり「私たちはみんなつながってるんだね」という東洋思想的な境地に達する。
それと非常にアメリカ的なDIY精神、「自分たちでなんでもやったろう」というマインドが結びつく。
地球に住むひとりひとりが、支え合い、助け合うために知恵を共有しようや、と。
ホールアースカタログは、たんなる情報の羅列としてのノウハウやカタログではない。
もっと手触り感のある「これやると便利だぜ」とか「そういうことが知りたいならこいつんとこに聞きにいきな」という思想がある。
もちろん、ホールアースカタログ、スチュアート・ブランドの思想は、受け手によってどこを強調して受け取るかは違う。ノウハウ集・カタログ集的な側面だけ抜き取れば80~90年代日本のマガジンハウスの雑誌みたいになる。「情報のリンク」という点を継承したのがワールドワイドウェブ、インターネットであり、検索エンジンである。
吉成さんの場合は、人それぞれにもっている知恵あるいは店や人の情報が一覧できる、それが集まる場所がある、というところを継承した。それの地域版(岐阜版)のメディア・空間にメディコスをしよう、と。吉成さんの思想は簡単に言えばこういう話だと思う。
図書館は、そこで学び、地域の人間同士がつながり、知恵を分かち合うためのハブである。
施設や本の貸し出し、サービスそれ自体が目的ではない。
ここから先は私の考えだけれど、「本屋と図書館の連携」という表現の何がよくないか?
本当は「本屋と図書館」の二者で関係が閉じているはずがない、閉じていいはずがない。
本好きにとっては本自体が楽しみであり目的になっているから「本屋と図書館の連携」という表現に疑問を抱かない人もいるかもしれない。
しかしたいていの場合、本は「何かについて書かれた本」である。仕事について、恋愛について、歴史について、等々。
人は「何かのために本を買う/読む」。知りたい、すっきりしたい、時間つぶしたい、等々。
つまり本、書店、図書館は何らかの目的を達成する、課題を解決するための手段として使われるものである。
したがって考えるべきは「本屋と図書館と何か」たとえば「本屋と図書館と子育て」「本屋と図書館と地域への観光」「本屋と図書館と福祉」「本屋と図書館と地元の産業振興」の連携でないとおかしい。
もっと言えば、まちづくりや教育といった、その地域で取り組みたい目標や方向性のほうが「主」。「じゃあそのために本屋と図書館で協力しあったら何ができるかね。本屋と図書館だとできることがそれぞれ違うから、お互い得意なところを活かしてやってみようか」という話が「従」である。
行政サイドの人たちで言えば「図書館だから教育委員会、社会教育課・学校教育課マターですよね」ではなくて、福祉課や産業振興課の人たちも巻き込んでいくものになってこそ「書店と図書館の連携」が地域にとってより大きな意味があるものになる。
「本」自体を軸にしたイベントや連携も大事だけれど、現実的に集客、本屋にとっての売上を考えてもそれだけでは限界がある。
何か困りごとがある、あるいはなんかおもしろいことをしたい・知りたいといったときに「地元の本屋や図書館に聞いてみよう、行ってみよう」という大きな流れをつくるために「本屋と図書館と何か」が連携していくのが大事なのであって、本屋と図書館をお互い向き合わせることありき、目的にしてしまったら、それは違う。
「書店と図書館の連携」を考えるときに吉成さんの仕事、メディコスの存在が重要な参照点になるのはこういう文脈だと思う。
町の人たちをつなげる場所として図書館のような社会教育施設がある。いろんな仕事をしている人たち、生活をしている人たちが関わってくる。お互いに助け合い、学び合う。そこに当然本屋も入ってくる。
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